1990年6月に嫁と娘は初来日を果たし
日本生活が始まりましたがその時の苦労や問題を
記憶の限り綴ってまいります・・・
嫁と娘の日本生活も順調になってきましたが
流石に日本の冬の寒さは堪えている様でした・・・
下記のいずれかのクリックにて
応援のほどを宜しくお願い致します・・・
こんばんはHamreyです
寒い時にはエアコンを付けるが
やはり乾燥が凄いのでファンヒーターにしました・・・
(エアコンは夏季の”ドライ”のみ…)
それでも厚着は必死の嫁なので
部屋は狭くなるがコタツを設置します・・・!
ネットで拾った写真
座椅子に座りおやつを食べながら
大好きな”水戸黄門”を観るのが
嫁の午後の日課・・・
そしてその後は
ネットで拾ったイラスト
ぐうたらな”こたつむり”へと変異して
徐々に腹回りに”脂肪”を蓄えだす・・・
それでも蓄えた脂肪を房にまわすべく
妙なマッサージに凝っていたが
効果のほどは・・・!?
(有ったという風にしておきました…)
タガ(ブラ)を外すと”元の木阿弥”だったが
ネットで拾ったイラスト
損な事は口が裂けても言えない
日本人青年だった・・・ (当時33歳)
話は変わり
敬虔なクリスチャンと自称するフィリピンでは
最大級のイベントであるクリスマス・・・
(呑み食い踊るダケの様にしか思えないが…)
それでも親族が介してワイワイガヤガヤと
なるのが楽しいらしい・・・
(オカニや食べ物があればすぐに集まって来るが…)
そう云えば教会には行っていたが
特別な”宗教的行事”は無かった様だった・・・
(ワイは教会内には入らず外で(-。-)y-゜゜゜)
まっ日本のクリスマスは
ネットで拾った写真
ケーキとKFCで終わりですが
ネットで拾った写真
偶にはと思いカラオケボックスには行った・・・
(殺人的音痴のワイは🍺ダケ…)
年越しと正月はまたしてもワイの実家に行き
ネットで拾った写真
正月の特番を観ながらおせち料理を食べ
ネットで拾った写真
妹夫婦達とお喋しながら
ネットで拾った写真
呑んでいたダケ・・・
殆どP民と変わらない事をしているのだが
何か異質に感じているのは何故だろう・・・!?
あっ娘M子だが
だいぶ日本語能力が上がって来たので
妹の子供達(従姉弟)とも会話が成り立っていた・・・
(方言は難しい様だが…)
そうそう年末にはめでたく8歳になっていたが
誕生日の事は”割愛”します・・・
M子の小学校生活は4ヶ月となったが
ほぼ日本語で授業が付いていけるとの事で
正月明けの3学期からはクラスでの授業となる・・・
(今までは”特殊学級”での日本語訓練…)
そして春休みには”凱旋帰国”となる
渡セブを計画していたのでM子の”戸籍謄本”を取り
日本のパスポート申請をする・・・
これはフィリピンパスポートを所持していたので
日本パスポートは不要の様だが
フィリピン出国時の”旅行税”を回避する為だった・・・
旅行税1650P(約8300円)
そして再入国許可(一次3千円・数次6千円)
パスポート費用(12歳未満5年有効6千円)
まっパスポート費用の方が安く済むので
嫁も反対する理由は有りません・・・
(と云って日比両方パスポートを持つ子供もいた…)
そして2月某日授業が早く終わる日に
パスポートセンターへ行き申請しますが
サインはM子の自筆となります・・・
「大丈夫かなぁ~…!?」と受付の職員に
プレッシャーを掛けられながらも
何とかサインをしたM子・・・
一週間後には受け取れますが
その時はワイが代理で受け取れるとの事で
ネットで拾った写真
はれて日本のパスポートを手にしたM子・・・
(実際にはワイが持ち帰った後だが…)
これからチケットの予約となって往きますが
当時は旅行代理店に電話をして発注となるので
スケジュール的な事を複数用意していた・・・
ほぼ希望通りのスケジュールで取れたので
その後は嫁が日本土産を爆買いしていく
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これにて”日本生活記(序章)”は終わりますが
割愛した処やのちに思い出した処は
今後何処かでアレンジしていきます・・・
次回からは1991年3月の渡セブ時(里帰り)を
”借家記(第一章)”として考えております・・・
ご覧になられた皆様
ありがとうございました・・・