1991年4月には”凱旋帰国”も終えて
新年度(平成3年度)の生活が始まりました・・・
1991年の出来事と云えば
雲仙普賢岳の火砕流とか
フィリピン・ピナツボ火山の噴火がありました・・・
下記のいずれかのクリックにて
応援のほどを宜しくお願い致します・・・
こんばんはHamreyです
一週間遅れで帰国した嫁は
フィリピン滞在中の様に”自分本位”の振舞いだったが
ソファーで一人寝のワイを観たら”同情”した様だった・・・
朝食は嫁が作ってくれた・・・
ネットで拾った画像
と云ってもハムエッグとインスタントの味噌汁に
ご飯ダケのいつもと変わらない朝食だった・・・
だがしかし
ネットで拾ったイラスト
この日は朝から
ネットで拾った画像
”お父さんがんばって!”と云う
海苔の佃煮が追加されていた・・・
これの意味する事は
こちらにあります・・・
と云う事で娘M子が登校する頃には
ネットで拾ったイラスト
早々に入浴して準備を整えます・・・
その後にワイも”身を清める”為に入浴するが
その間に”ビサヤ女コミュニティー”のDaが
嫁を訪ねて来ていた・・・
(子供の通院前に自転車で…)
このDaだが前日の昼過ぎにも電話で
嫁の帰国確認をしてきたが
その時間は未だマニラ空港でしょう・・・
(帰宅時間も夜11時頃になる…)
嫁の帰国を知っていたのは
Daの母親から土産を預かっているダカラ~・・・
他にも数人分の預かりモノは有る様だが
電話をしてきたりやって来るには
早過ぎませんか・・・!?
(未だ朝の8時過ぎ…)
尤も”自分本位”の非比常識の塊であるので
仕方ない・・・
だがワイにとってP民並みの云い方をすれば
「ここは日本ですヨ~!」・・・
と言ってもこんな事は理解出来る相手ではない・・・
「嫁はP~ナだから~ダイジョブ!」
とこんな風に平気で云ってのける・・・
(他の者はシッカリ躾けられていた・・・)
バッグも未だ開封していないので
病院帰りに寄る様にと伝えて納得させたが
やはり”精神年齢”の問題の様だ・・・
Daが去った後の我々だが
確実に”興覚め”していたので
バッグを開封して土産の仕分けを始める・・・
そしてご近所さんへのお土産もあったので
届けに行くのとM子の担任との吞親睦会の
打ち合わせをする様に伝える・・・
(ワイは洗濯を…)
昼前には病院帰りのDaが子供二人と来て
Daの母親からの土産を受け取り
昼食も食べて去って行った・・・
我々は他のP~ナへ荷物を届けたり
食料の買い出しに忙しく動き回った・・・
(と云ってもワイの運転する車でだが…)
アタフタした日だったが
コケコッコーも爆音も無い日常であった
・
・
・
Please click the picture below.
It will be erect encouragement. ⤴
↓↓↓↓↓
”濃厚接触”はM子が寝てから♡♡♡